宮沢りえ全盛期の真実|社会現象と悲哀を越え大女優へ至る軌跡を徹底解剖
飛ぶ鳥を落とす勢いだった彼女のキャリアは、1992年秋、突如として激震に見舞われます。当時、角界で破竹の快進撃を続けていた若き天才大関・貴花田(のちの第65代横綱・貴乃花)との婚約発表でした。19歳と20歳の国民的スター同士の慶事に列島は祝福ムード一色に染まり、連日メディアはその一挙手一投足をトップニュースで報じました。
しかし、幸せな時間は長くは続きませんでした。わずか2か月後の1993年1月、二人は突如として婚約破局を発表します。「自分の気持ちを整理し、それぞれの道を進むことにしました」という貴花田側の硬い会見と、深く傷つきながらも公の場で気丈に振る舞うりえの姿は、日本中に大きな衝撃を与えました。
破局の背景として当時もっとも取り沙汰されたのが、マネージャーとして実権を握っていた実母・宮沢光子氏(通称・りえママ)の存在です。報道各社の取材データや関係者の回顧録によると、梨園や角界という伝統的な「部屋のおかみさん」として娘が芸能界を引退し家庭に入ることを、ステージママとして二人三脚で歩んできた母・光子氏が受け入れられなかったことが決定打になったとされています。角界の厳格なしきたりと、娘の才能を世に放ち続けたい母親のエゴが正面衝突した結果でした。
この破局を皮切りに、彼女を取り巻く歯車は狂い始めます。過密スケジュールと世間からの容赦ないバッシング、母娘関係の重圧が重なり、1994年以降は激やせが連日ワイドショーで騒ぎ立てられる事態に陥りました。痛々しいほど細くなった手足、舞台の突然の降板、ホテルでの負傷騒動など、メディアの過熱報道は極限に達します。1996年にはついに芸能活動の無期限休止を発表し、療養のために米ロサンゼルスへと旅立つこととなりました。