興福寺の阿修羅像はなぜ憂うのか?3つの顔に秘められた衝撃の真相を徹底解説
この比類なき造形が誕生した背景には、時の権力者・光明皇后の個人的な深い悲哀がありました。神亀から天平の時代、藤原不比等の娘として生まれた光明皇后は、聖武天皇の妻として激動の政治舞台に立ちながらも、最愛の母・橘三千代を天平5年(733年)に亡くします。その母の一周忌供養のために、翌天平6年(734年)、興福寺西金堂に造立されたのが、釈迦如来を取り囲む八部衆立像と十大弟子像でした。
母の菩提を弔い、死後の安寧を祈る皇后の純粋な祈りは、仏像造立の技術面にも革新をもたらしました。当時最先端の技法であった脱活乾漆造(だっかつかんしつぞう)の採用です。この技法は、以下のような緻密を極める工程を経て完成します。
まず木枠の上に粘土で精密な原型を作り、その上から麻布を漆で幾重にも張り重ねて漆皮を形成します。漆が完全に硬化した後、背中などを切り開いて内部の粘土をすべて掻き出し、木骨を入れて補強。その表面に「木屑漆(こくそうるし)」と呼ばれるペースト状の漆を盛り上げて、目元や唇、指先の繊細なニュアンスを彫刻していきました。
この脱活乾漆造の最大の利点は、ブロンズ鋳造や一本の巨木から彫り出す木彫では不可能な「極めて細くしなやかな四肢」と「肉筆絵画のような微細な感情表現」が両立できる点にあります。内部が空洞であるため像高153.4センチメートルという等身大のサイズでありながら、重量はわずか約15キログラム前後と驚異的に軽く、火災の頻発した興福寺において、幾度もの炎上から僧侶たちの手で即座に運び出され、奇跡的に現存することにつながったのです。